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一人の女性ができること

昨日の続き。

「コクリコ坂から」のことを書いてから、
あの映画について、いろいろなことを思い出し、
ますます違和感が増した。

主人公のうみちゃんは、貧乏な家の娘でもないのに学校に通う傍ら下宿屋をきりもりし、
一家の家事もしている。弟の靴下のつくろいまでするのである。

さらに家でそんなに働いているのに、学校でも男の子の活動のためにガリ版を切ってやったり、
やりたい放題に荒らしたカルチェラタンの掃除をしてやったりする。

さらに、医学部も目指すらしい。

何だ、この子は。スーパーウーマンか。


私はこんなに働く少女を見て、げんなりしたし、痛々しいとも思った。
でも、そうは感じさせない装置がしくんであるのである。
それは、この子がここまでの労働をしているにも関わらず、「自分の好意で」さらに負担を負うことところだ。
「女性ってそういうものでしょ。人に尽くすのが好きだから負担に感じないのでしょ」みたいなある種の都合のよい女性像をこの子は背負っているのである。
こんな子はいるわけもないのに。

実は、最近、私はある知り合いの愚痴をしょっちゅう聞かされている。


その人の夫は家族には無関心。子供の進学にも興味がなく、自分の稼いだお金は自分が優先的に使ってよいと考えている。
長男は、「この大学にしか行きたくない!」と言って学費の高い某私立大学に入った。
次男は今年受験生。
彼女は夜と昼にパートをかけもちして働いてこの2人の子どもの教育費を捻出しようとしている。
それなのに、家事を手伝う人もなく、家族はさらに深夜に車での迎えや買い物を要求したり、弁当に文句を付けたりしているらしい。

それを聞いて、もう子どもも大きいのだし、彼女も自分ができることとできないことを子どもや夫にはっきりと伝えるべきなのではないかと正直なところ思いもするのだが、その一方で、
彼女のあまりにも大きい負担を家族は想像できないのだろうかと非常に不思議にも思うのだ。
母だから当たり前、妻だから当たり前だと思っているのだろうか。家族でもない私が聞いても胸が痛むのに、
この家の人たちは、こんな状態で一つの家に住んでいて、どうして平気でいられるのだろうか。

ずっといつもいつもそのことが不思議でならなかった。
でも、「コクリコ坂から」のような映画を見て、「女一人にいくらでも負担を負わせて何の疑問も感じない」男性は意外と世の中に普遍的にいるのかもしれないと思い当たったのだ。
 
製作側は言うに及ばす、「かいがいしく働くうみちゃん、すてき。理想の女性です」などとレビューを書いている人たちも、
「女性を賛美している」ように表面上は見えるけれど、
こういう薄情な鈍感さに相通じるものを持っているのではないだろうか。
by ymznjp | 2011-11-07 08:24