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またしても落ち込む

今週の初めに入った仕事は木曜日に納品した。
その仕事が入った直後、もう1件打診があったのだが、金曜日納品で分量も多かったので、
しかたなく断った。
今月は暇だったのに、来る時には仕事が重なってきて、断るはめになる。
本当に残念。

その後、先日、失敗した仕事の次回分を受注する。
ありがたいことに前回と同じ受注内容だった。
その仕事の説明会のため、土曜日の今日は都内まででかける。

そのまま帰るのももったいないので、新宿の映画館で「縞模様のパジャマの少年」を見る。
ホロコーストの映画である。
映画全体を覆う暗い雰囲気に最初から気圧される。
抑圧するものもまた抑圧されていて、その抑圧ゆえに心が荒み、
抑圧されるもの同様に傷つく。それなのに、なぜ、こんなことをするのだろう。
同じように人々の憎しみをいたずらにあおろうとする状況は、今も私たちの周りに程度の差こそあれ、存在している。

それが怖い。

途中まで見て結末がおよそ推測できてしまい、最後まで見ずに逃げ出したくなる。が、心臓が凍るような結末まで画面から目を離せなかった。
「衝撃の結末」とレビューに書かれていたので、主人公の少年に救いは訪れないのだろうと思いながら、それでも救いが訪れるのを願いつつ。

先日、「たけくらべ」と森村桂の著作などを読んで以来、どんよりと曇った気持ちでいる。
思うことをまとめて感想を書けば、そういう気持ちにもけりがつくのかもしれないが、なかなかそれもできないまま、またしても、重い映画を見てしまう。

私の生活は低調ながらも平穏なのに、わざわざ心が沈むようなことばかりして、いったい何をやっているのだろうと思う。
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by ymznjp | 2009-08-29 21:55

先週の木曜日、隣家の奥様・お嬢様、私、うちの娘の4人でライオンキングを見てきた。
とっても楽しかった。うちの愚息が志望大学に合格したら(「大学受験が終わったら」ではない)、ぜひ彼もつれてまた見に行こうと思う。
映画のライオンキングよりもずっと楽しかった。
なんとなくおかしな動物たちがおかしい故に楽しくて魅力的。
皆様もぜひ。

この間、ちびちびとした仕事がわずかにあっただけだったので、
その他に、「たけくらべ」を再読し、その後、森村桂の「それでも朝はくる」、その夫君が書いた「桂よ。わが愛、その死」を読んだ。

この順で読むと、普通の人は絶対うつっぽくなると思う。
夏の終わりのヘビィな思い出にぜひ。
森村桂は初めて読んだので、彼女のもとからのイメージについてはよく分からないが、
こういう裏表があったとは正にホラーだ。

このことについては、詳しく書きたかったのだが、明日から仕事なのでそのあとでまた。
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by ymznjp | 2009-08-24 20:28

この夏の楽しみ

今週のできごとを順を追って書くと…。

火曜日。娘がエヴァンゲリオンの映画を見たいというので、映画館に送って行った。
私は特にその映画を見たいとは思わなかったので、近くのダイソーで「近代日本文学選 正岡子規」を買い、外のベンチで読みふけりつつ娘を待つ。

いくつかの紀行文に始まり、「歌よみに与ふる書」その他が続き、最後には亡くなる直前に書かれた随筆文が掲載されている。

知的で、豪放磊落で、ユーモアがあって、死の直前まで生きる楽しみを求め味わった子規の目の覚めるような名文に魅了されて、AMAZONでさらに数冊を購入した。

そういうわけで、またしても、「アンナ・カレーニナ」のほうは中断することになりそうだ。
でも、アンナは私にとって、共感できる女性でも、好きな女性でもないので、それはそれでかまわない。
いつまであるか分からない人生なら、好きなものを追いかけていったほうがよい。

水曜日は、娘を連れて東京フォーラムのコンサートへ。
このコンサートは3年前から毎年開かれているもので、内容もとても充実している。
今年はチャイコフスキーの特集だった。
昨年はこのコンサートであの辻井伸行氏がベートーベンを弾いたが、今年のコンチェルトのソリストもすばらしかった。特に、バイオリンコンチェルトは、ほとばしり出るような感情がこちらの胸まで高鳴らせるような感動的な演奏だった。コンチェルト2曲とシンフォニー1曲まるまる聞けて、クオリティも高いのに、1000円とは本当にお得。チケット購入時に座席を選ぶことはできないが、今年は運よく二階席の前方のちょうど真ん中あたりのよい席だった。

木曜日は調律師さんが来る日だったので、外出できず、ピアノの音が鳴り響く中、居眠りして一日をすごした。

さて、来週のお楽しみはライオンキング。楽しんできます。
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by ymznjp | 2009-08-14 12:20

叔父の葬儀に参列してから、何かもやもやした気分が消えない。

あの質素すぎる葬儀は、零落のためだったのか、それとも家族の意向だったのか。
もちろん、そんなことを聞いてみる気はないけれど、たぶん、両方なのだろう。

最近は、家族葬というものが増えているらしい。
たぶん、あの葬儀もそれだろう。
余計なわずらわしい付き合いを廃して、故人と深いつながりをもつ人たちだけで葬儀をおこなえば十分なはずである。

他の人にやたらにそういう質問を投げかけるわけにもいかないので、帰りの電車の中で、妹に聞いてみた。
「ああいう質素な葬儀は今では割合と普通なのかしら。」
「そうじゃない?最近は葬儀に限らず、結婚式でもなんでも質素みたいだし。
私たちが新任のころは、勤め出すと、みんなすぐに車を買ったけど、最近の若い人たちはみんなそういうものにはお金を使わないよね。」

私たちの世代は、経済が頂点に上り詰めようとする時代に、「常識」というものを身につけた。
最近、その「常識」と後の世代の人たちの常識との間にずれがあるのではないかと思うことが多い。
そして、私たちの「常識」のほうが何か狂っているのかもしれないとも思うのである。

昨年、芥川賞を受賞した「ポトスライムの舟」を読んだときにもそう思ったし、
年末にバブルのころに流行った松任谷由実の「恋人がサンタクロース」をふと耳にしたときにもそう思った。
寒い冬の日、恋人がプレゼントを持ってくるのを家の中でぬくぬくと待っているという歌詞は、暗い不況の年の瀬に聞くと、なんとも能天気というか、あさましいというか、妙な感慨をもたらすものだった。

同年代の人と話をしていると、「どこで何を食べた」、「何を買った」、「どこで遊んだ」というような消費の話ばかりであり、むなしくなる時がある。

前にも書いたことがあるが、労働市場から結婚もしくは出産とともに押し出される運命にあった私たちの世代は、そういうものを「生きがい」の代わりとしてあてがわれたのだ。
つまり、私たちの世代の女性の多くにとっては、生きがい、自己実現、個性とは、誰かが差し出すものの中から何を選ぶのかということにすぎないのである。
たまたま時代が豊かであったため、まやかしの生きがいもそれなりに豊かで多彩であり、
疑いを抱くこともなくそれを受け入れてきてしまった。
当時、同年代の男性からあれもこれもと品物や娯楽を当然のようにせしめ、その分量を愛情の分量のように語る女性たちに違和感を持ち、貧乏な相手を選んで結婚した私でさえ、あの時代の毒にあたってしまっていたらしい。

質素な内輪の葬儀にもそれなりのよさがある。でも、何につけてもお金をかけないことをいちいちみじめなことのように思ってしまう自分がいる。
おそらく同年代の人たちはたいていがそうだろう。

今ここまでそういうまやかしの中で生きてきて、ようやくその異常さに気付いたが、
こういう感性から抜け出せるという自信をいまだに持つことができない。
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by ymznjp | 2009-08-09 17:27

WHYさんのブログに思うところあっていろいろと書き込みをした。
こういうことは思うだけにして、すべて心にしまっておけばよいのだが、
最近、他人の訳文を評価する仕事が相次ぎ、さまざまな思いが胸に沈殿していたところだったので、
つい不躾なことをいろいろ書いてしまった。

WHYさんは温厚な方だからあからさまには書かないが、「翻訳した方も見ているのに、まったく困ったことを平気で書き連ねる花うさぎだ(こんちくしょーっ)」と思ったに違いない。


しかしである。

仕事で扱う翻訳ならば、「業務に支障がでなければ言葉へのこだわりはなくてよい」という部類のものも多々ある。
しかし、趣味で翻訳をするのならば、なおのこと、そのこだわりを捨てて、何の意味、何の楽しみがあるのだろう。


自分が理解せず、使いこなせない表現を使うということは、「相手に伝えること」という翻訳の本来の存在意義を軽視することに等しいと思う。

また、「翻訳者でもなく、言葉の専門家でもない」というWHYさんのお言葉は、ありていに言ってしまえば、
「どうせ素人が遊びでやっているにすぎぬのだから、大目にみてやれや」ということだろうが、
これだけの分量の訳文を作成するくらいなら、チャンスさえあれば、将来翻訳者になることを少しは考えているのではないだろうか。
ならばこそ、「このひとは趣味だから」と言うよりは、同じ地平に立って「言葉に対する姿勢」についての問いかけをしたほうが、誠意ある態度なのではないだろうか。

分かっている。優しく礼儀正しい人は私みたいにズケズケものを言えないのよ。
でも、本当にプロになったら、誰も何にも教えてくれない。
その一方で、たった一人でクライアントからの理不尽なクレームに対応しなければならないこともある。だからこそ、表現、文法的解釈、専門用語の選定について、日ごろから曇りなく整理し、どんな質問にも答えられるようにしておくことも必要なのである。


このところ、ひと様の訳文の評価をする仕事ばかりが重なった。
「どうしてこのレベルでプロになれると思ったのか」と思う答案が相当な割合を占めている。
中国語専門学校や留学で学んだとしても、その中でいつもお客様としてしか扱われなかったから、不幸にも自分の実力や問題点を把握することができなかったのだろうか。
英語の翻訳者の場合、まともな大学を出ている人ならば、受験勉強に取り組む中で、ある程度はきちんと文法事項等を網羅的に学んでいるはずである。しかし、中国語の場合は、英語のように厳しく評価される中で文法や解釈技術を学んだ人は少ないのではないだろうか。


問題点や誤りを指摘されるのは怖いし、不愉快である。
それは分かっている。でも、それを避けてしまったら、いったい欠点に気づきそれを克服するチャンスはどこにあるのだろうか。
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by ymznjp | 2009-08-08 21:46

浮き沈み

昨日は、叔父の葬儀があった。
茨城の自宅から三浦半島の先端までを、往復7時間かけてとんぼ返りしたのである。

非常に質素な身内だけの式だった。
叔父は地元のある業界で多くの人の上に立っていた人物だったので、その落差に驚いた。
浮き沈みのある人生だったということだろう。

式後、霊柩車の後を行く車に乗って、土地特有の曲がりくねった細い道を海を見ながら火葬場まで送って行った。そう、こういう風景の中に私の子供時代もあり、思い出の中の叔父の姿もあったのだ。
壮年と言われる年齢まで子供に恵まれなかったので、私たち兄妹は子供時代、さんざんお小遣いをいただいたものだった。そして私たちが長じたのちは、うちの子供たちにも。

梅雨曇りの下の質素な葬儀の様子に何か心が晴れぬものを感じながら家に帰ると、先月した仕事のクレームが私を待っていた。

まったく弁解の余地もないような私のミス。
フォーマットが苦手なエクセルだったので、ワードで文書を作り、
その後、エクセルに張り戻す時に、貼り付けるセルを間違えていたのだ。
翻訳会社には中国語を読める人がいないので、そのままミスが発見されず、納品されてしまったらしい。
間に入って事態を収拾する担当者に申し訳ない気持ちでいっぱいである。
本当に穴があったら入りたい。

仕事自体は、丁寧にしたつもりだった。
だけれど、最後の最後にペーストするときに気が緩んでしまった。

またしても、徒然草を思い出す。ほら、あれ、「木登りの名人」。
「あやまちは、安き所になりて、必ず仕ることに候ふ」。

一昨日は、ある翻訳会社から久々に仕事をいただき、新しい担当者にずいぶんと褒められて舞い上がっていたのに、
一夜にして、この奈落へと落ちてしまった。もうこの仕事は次回は来ないかもしれない。

これからの受注はどうなるのだろうな。家に帰ってから、今度は自分の浮き沈みを痛感することになった今日の私だった。
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by ymznjp | 2009-08-07 09:21